萌えってなんぞや

 萌えってなんだろう。小説を書く以前……それこそ中学時代に初めてアニメをじっくりと見た(ちなみに最初に見たアニメは「天地無用!」と「機動戦艦ナデシコ」。僕のオタク人生はこの2作品から端を発しているのだね)時から、漠然とそんな事を考えていた。ただまあ、ゆるりと見ている分にはそんなの関係ない。以降エヴァスレイヤーズマクロスプラスなどを経て、ガンダムに辿り着いた時にこれをもう一度考え直す事になる。

 一連のアニメ作品群の中でも、ロボットアニメ……とりわけガンダムはやや硬派な方に分類されると言っていいだろう。少なくとも僕の最初に見たガンダム……逆襲のシャアと第08MS小隊に関しては、かなり硬派な方ではないかと今でも思っている。例えば天地無用!スレイヤーズとは違うベクトルのアニメだと解釈していた。そして傲慢極まりない事に、「こんな硬派なアニメを見ている俺はそんじょそこらのアニヲタとはレベルが違うんだぜ」みたいな事を真面目に考えていた。

 そしてガンダム小説を書き始めたのが、高校生の頃。
 以前から書いていた小説……例えばバーチャロン小説シリーズ(笑)でも、主人公は一貫して女性だった。二十代の女性軍人……着想はポケ戦のクリスティーナ=マッケンジーだったが、彼女のようなタイプがメインだったと言っていいだろう。所謂男勝りな、08小隊におけるカレン=ジョシュワのようなタイプを登場させることのほうがむしろ少なかった。これが「雪の墓標」でエルザ=マールシュタインとして結実し、後に「promise」でセリーズ=リーツェンベルガーとなるわけなのだが。
 矛盾にぶち当たったのは、「雪の墓標」執筆中の頃。自分ではまだガンダムを硬派なジャンルだと思っていたし、自分の書いている小説は「硬派」だと信じて疑っていなかった。
 しかし、本当にそうなのだろうか。
 前述のバーチャロン小説を書いていた頃から見え始め、「静寂の海域」「雪の墓標」で自覚できた感覚なのだが、女性キャラを魅力的に描き出す方法がなんとなく見えてきたのである。

 魅力的な女性に感じるこの感覚は、所謂「萌え」とは違うのだろうか。
 いや、それを言うならロボットや飛行機に感じる感覚も「萌え」とは違うものだろうか。
 そもそも、自分がこれだけ忌み嫌ってきた「萌え」って何なんだろうか。

 最近思うのは、「萌え」を狙ってアニメ(のみならず、小説や漫画など)を作る事は決して「レベルの低いもの」では無いという事。魅力的なキャラクターを演出するのもまたスキルが必要な事なので、萌えアニメ=低レベルというのは「俺は萌えアニメなんか嫌いな「高潔」なアニオタなんだよ〜」と言っているようでどうにも虫が好かないのだ。