これだけは譲れないが

 種デスの砲台攻略戦はあちこちで物議を醸しているようですな。
 分離状態のインパルスが坑道を飛びぬけるくだりは、1の頃からのエースコンバット愛好者としては引っかかる所も多かった。(エースコンバットシリーズは、1を除くすべての作品にこの手の洞窟飛行ミッションがある)というか何というか、本当に引き出しの少ないアニメだなあと。既存の何かから持ってくる「だけ」じゃオリジナリティもへったくれもなかろうに。

 さて、個人的には「戦争の悲劇」を描写するのに2つのパターンがあると思う。ひとつは戦争に巻き込まれた民間人の視点から見た悲劇……流れ弾で親兄弟が死んだり、空襲で町が焼けたりといった描写を前面に出すやり方だ。代表的な例としては「火垂るの墓」や「戦場のピアニスト」など。主人公が戦争に全く関係のない民間人だからこそ、非日常であったはずの戦争が突然日常と化し、自分の意思など関係ないところで世界が動き、身の回りの全てを飲み込んでいく。それをただ受け入れるしかない主人公。こういう描写にしてこそ引き立つ。

 次に上げられるのは戦争に参加する兵士から見た「悲劇」……すぐ隣でさっきまで笑っていた戦友が死ぬ。向かってくる敵を撃たなければこちらが撃たれて死ぬ。前線を知らない無能な司令部の無茶な命令。これらが混ざり合った上での「非日常」が日常的になり、軍隊という装置の中に組み込まれた歯車となってゆく(あるいは、すでになっている)主人公の悲哀を描く。これもまた「戦争の悲劇」である。具体的な例としては「プラトーン」や「プライベート・ライアン」「ブラックホーク・ダウン」も含まれるだろう。

 ガンダムの場合、この両方を混ぜ合わせることもできる。ファーストにおけるアムロが代表的だろうが、ついこの間まで民間人(しかも中立コロニーのため、戦争とは基本的に無縁だった)の主人公がやむを得ぬ理由から新型機に乗り込み、状況に流されるまま戦争に身を投じていくというかたちだ。民間人と兵士という両方の視線を持ち合わせているのである。

 しかし今回の種デスの場合、この作戦における悲劇が「占領下にあった住民による連合兵士の虐殺」という形だけに終わっている。はっきり言って「戦争=たくさん人が死ぬ=悲劇」という至極短絡的な描写になってしまっているのだ。「だから戦争をしてはいけない」と言うだけなら誰でも出来る。戦争というテーマを最初から選んでいるのなら、その作品なりに「ではどうやったら戦争を終わらせられるのか」という答えを提示しなければ、ただただ人が死んでゆくだけの三流ホラーとたいして変わらない。まぁ前作で人間風船破裂を見たときから薄々と感じてはいたのだが、種の製作陣……特にプロデューサーや監督・脚本といった頂点に近い人物に、戦争に対する知識や思考力が決定的に欠落しているのではないかと疑ってしまう。戦争が結局「主人公達がいかに優れているのか」を示すための舞台装置に過ぎないのなら、ここに来てあからさまな虐殺シーンなど入れなければ良い。キャラグッズやプラモデルの売り上げを伸ばしたいだけのアニメで「戦争はダメだと言いつづけなくてはいけない」など、愚の骨頂だ。それならガンダムという媒体を使わず、1からオリジナルのアニメを作り出せば良い。

 何度でも言う。ろくに勉強もしないくせに戦争の何たるかを語るのは、実際に戦争を経験し地獄を生き抜いてきた人間達に失礼だと知れ。戦争がやってはいけない事などという今時小学生でもわかるような理屈ではなく、あと1歩踏み込んだ「ではどうすべきか」という答えを示すべきだ。
 それができないのなら、やめてしまえばいい。